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戊辰战争后各藩处分结果

自用存档。会慢慢翻完,先这样,细细碎碎有点麻烦(。


■战后处理

庆应4年5月24日,新政府减免德川庆喜的死刑改为低一等的罪刑,并让田安龟之助继承德川宗家,并发表了下赐骏府70万石的公告。

又及,对各藩的战功赏典及处分中重要部分进行举例。

■战功赏典/永世禄

10万石:岛津久光父子(萨摩),毛利敬亲父子(长州)

4万石:山内丰信父子(土佐)

3万石:池田庆德(鸟取)、户田氏共(大垣、大村纯)(大村)、岛津忠宽(佐土原)、真田幸民(松代)

2万石:佐竹义美(久保田),藤堂高(津),井伊直宪法(彦根),池田章政(冈山),锅岛直大(佐贺),毛利元敏(长府),松前兼广(松前)

1万5千石:前田庆宁(金泽)、户泽正实(新庄)、德川庆胜父子(尾张)、浅野长功(广岛)、大关增勤(黑羽)

1万石:松平庆永父子(福井)、六乡政坛(本庄)榊原政敬(高田)、津轻承哀(弘前)、户田忠饶父子(宇都宫)、黑田长知(福冈)、有马赖咸(久留米)、秋元礼朝(馆林)等

■被处分的藩 

仙台藩 - 减封28万石(62万石)。藩主·伊达庆邦的死刑改为低一等的罪刑谨慎。

(谨慎:自由刑的一种,一定期间禁止外出。)

家老6名被处刑,2名切腹。 

会津藩 - 陸奥斗南藩3万石に転封(23万石)。藩主父子は江戸にて永禁固(のち解除)。家老1名が処刑された。 

盛岡藩 - 旧仙台領の白石13万石に転封(20万石)。家老1名が処刑された。 

米沢藩 - 14万石に減封(18万石) 

庄内藩 - 12万石に減封(17万石) 

山形藩 - 近江国朝日山へ転封、朝日山藩を立藩。石高は5万石から変わらず。家老1名が処刑された。 

二本松藩 - 5万石に減封(10万石) 

棚倉藩 - 6万石に減封(10万石) 

長岡藩 - 2万4千石に減封(7万4千石)。すでに死亡していた処刑が相当の家老2名は家名断絶とされた。 

請西藩 - 改易(1万石)、藩重臣死罪。藩主・林忠崇は投獄。のち赦免されるが士族扱いとなる。後年、旧藩士らの手弁当による叙勲運動により、養子が他の旧藩主より一段低い男爵に叙任された。戊辰戦争による除封改易はこの一家のみ。 

一関藩 - 2万7000石に減封(3万石) 

上山藩 - 2万7000石に減封(3万石) 

福島藩 - 三河国重原藩2万8000石へ転封(3万石) 

亀田藩 - 1万8000石に減封(2万石) 

天童藩 - 1万8000石に減封(2万石) 

泉藩 - 1万8000石へ減封(2万石) 

湯長谷藩 - 1万4000石へ減封(1万5000石) 

■所領安堵となった藩 

八戸藩 - 藩主・南部信順が島津氏の血縁ということもあり、沙汰無しとなったと言われる。また、本家盛岡藩の久保田藩に対する戦闘では、遠野南部氏共々尊皇攘夷思想に参加していない。また、陰で久保田藩と通じる文書を交わしていることが明らかになっている。 

村松藩 - 家老1名が処刑された。 

村上藩 - 家老1名が処刑された。 

磐城平藩 - 新政府に7万両を献納し、所領安堵となった。 

相馬中村藩 - 新政府に1万両を献納し、所領安堵となった。 

三春藩 

新発田藩 

三根山藩 

黒川藩 

下手渡藩 - 下手渡の陣屋が仙台藩に攻撃されたため、旧領である筑後国三池に陣屋を戻して三池藩を立藩。石高は1万石から変わらず。 

明治2年(1869年)5月、各藩主に代わる「反逆首謀者」として仙台藩首席家老・但木成行、仙台藩江戸詰め家老・坂英力、会津藩家老・萱野長修は東京で、盛岡藩家老・楢山佐渡は盛岡で刎首刑に処された。続いて仙台藩家老の玉虫左太夫と若生文十郎が切腹させられた。しかし思想家・大槻盤渓は死を免れた。 

会津藩と庄内藩の処分については対照的な結果となった。会津藩は斗南3万石に転封となった。明治2年8月、当時若松県大参事だった岡谷繁実による猪苗代での会津藩5万石の再興の提言を受け、明治政府は明治2年9月11日に会津松平家を3万石で存続させることを許し、11月3日に封地を陸奥に決定した。下北半島の郷土史家の笹沢魯羊によると、転封地に関して新政府が斗南か猪苗代の選択肢を示し、会津藩内の議論の末、広沢安任の主張を採択して斗南を選択したと記述し、それが多くの書籍で引用されている。一方で野口信一は、猪苗代説の元史料の存在は認められず、議論は南部領への移住そのものに対する議論であると主張している。 

斗南は元々南部藩時代より米農家以外は金・銭での納税が認められている土地で、実際に年貢として納められた米は7310石だった。収容能力を超えて移住した旧藩士と家族は飢えと寒さで病死者が続出し、日本全国や海外に散る者もいた。 

庄内藩に対する処分は西郷隆盛らによって寛大に行われた。前庄内藩主・酒井忠篤らは西郷の遺訓『南洲翁遺訓』を編纂し、後の西南戦争では西郷軍に元庄内藩士が参加している。 

奥羽越列藩同盟から新政府に恭順した久保田藩・弘前藩・三春藩は功を労われ、明治2年(1869年)には一応の賞典禄が与えられた。しかし、いずれも新政府側からは同格とは見なされず望むほどの恩恵を得られなかった。この仕置きを不満とした者の数は非常に多く、後に旧久保田藩領では反政府運動が、旧三春藩領では自由民権運動が活発化した。 

箱館戦争が終結すると首謀者の榎本武揚・大鳥圭介・松平太郎らは東京辰の口に投獄されたが、黒田清隆らによる助命運動により、明治5年(1872年)1月に赦免された。その後、彼らの多くは乞われて新政府に出仕し、新政府の要職に就いた。

■遺恨 

戊辰戦争には様々な遺恨が語られている。 

交戦した新政府軍と旧幕府軍の対立はもとより、奥羽越列藩同盟における内部分裂からの遺恨も目立つ。とくに、戦争の遺恨について語られるのが会津藩である。会津藩は開戦以前から薩長と対立しており、新政府に対する敵意は強く、戦後処理を担当した福井藩の対応にも怨恨を抱いていた。 

後の西南戦争の際には、政府軍として参戦した旧会津藩士が「戊辰の仇」と叫びながら薩軍に突撃した、という俗説が生まれるなど旧敵に対する遺恨の話は多い。現代でも、太平洋戦争後に書かれた歴史小説などの影響で、山口県や鹿児島県を敵視する風潮があるとも言われる。

地域においては、奥羽越列藩同盟に残った藩と離脱した藩との間に確執がある。 

戊辰戦争で降伏した亀田藩と盛岡藩は、新政府側についた久保田藩に所領の一部を割譲された。久保田藩の後身である秋田県は、昭和5年に県歌として秋田県民歌を制定したが、曲の3番が久保田藩の勝利を称えるというものであったことから、元々亀田藩と盛岡藩の所領だった地域は受け入れられず、この歌を忌避したとされる。現在は2番までを歌うのが通例となっている。 

平成12年には、秋田県で開かれた「戊辰戦争百三十年in角館」で、当時の宮城県白石市長である川井貞一が久保田藩の寝返りを批判した。 

また、福島県には、列藩同盟を離脱した三春藩を「三春狐」と揶揄する歌が伝わっている。  


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